#復刻版パルティ

【1996年】復刻版パルティ-面白バックナンバーを振り返り

まだまだモノクロ印刷時代が続きます
懐かしい記事からシンガポール雑学まで

1994年創刊から四半世紀以上にわたり、シンガポールの情報を発信してきたPARTI。
この情報はPARTIの財産!(自分たちで言ってすみません)
独断と偏見で「面白い!」と思う記事をピックアップし、お届けしていきます。
今回は、『1996年』を振り返ります。



残念ながら、編集部の本棚に並ぶバックナンバーフォルダに1996年3月号の誌面保存がなく、それ以外の誌面内容より面白そうな記事をピックアップ。

引き続き、旅記事も満載ですよ。ビンタン島やペナン島、モルディブなども必見ですが、2月号「マレーシア・クチン」、4月号「マレーシア・クァンタン/チェラティンビーチ」、5&6月号「フィンランド」と、珍しい地域の旅記事もあるので、時間があるときにじっくり読んでみてください。
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1996年4月号/Vol.28

まずご紹介するのは、1996年4月号P.10に掲載されていた記事です。
日本で1995年1月17日に起きた「阪神淡路大震災」。そこから1年が経った頃、パルティ誌面で紹介された1冊の本の記事がありました。本の内容というよりは、そのような震災があったという事実を、改めて思い出してほしい……という思いから、今回こちらの記事をピックアップしました。決して忘れてはいけないことです。多くの犠牲者の方々のご冥福をお祈りいたします。



☝記事内容

忘れてはいけません、阪神大震災の教訓を!
震災の体験手記集 「阪神大震災 もう一年 まだ一年」

~神戸新聞総合出版センター刊、阪神大震災を記録しつづける会~

昨年1995年1月17日の阪神大震災から1年3カ月。
この間日本では大きな事件や問題が次々に発生し、人々の関心も時と共に薄れつつあります。しかし、被災者にとってあの震災は過去ではありません。ほとんどの人は今もなお厳しい生活を強いられており、犠牲者の数も増え続けています。

そんな中、神戸のボランティア団体 「阪神大震災を記録しつづける会」から『阪神大震災 もう1年 まだ1年』が出版されました。これは、昨年出版された『被災した私たちの記録』に続く阪神大震災体験手記第二集で、同団体に寄せられた224本の手記から68本をまとめたものです。肉親を失い心に大きな傷痕を残しながらも必死に生きている人々、さまざまな苦難を背負い厳しい現実と戦っている人々の前向きな姿は、読む者の心を強く打つことでしょう。

地震のない国で暮らしている私たちですが、 さまざまな意味で、決して他人事ではすまされない今回の大震災。忘れてはならない教訓として胸に刻み込むためにもぜひお勧めしたい一冊です。



1996年1月号/Vol.25

次にご紹介するのは、創刊2周年の1996年1月号P.9に掲載されていた、マレーシアの地酒について。おそらく酒好きな編集スタッフが書いたコラムでしょう。
“この土地ならではのお酒”と呼べるものがタイガービールくらいしかないシンガポール。つまらないなあということで、わざわざお隣マレーシアまで行き、「トディ」というココナッツワイン的な地酒を取材。お味やいかに⁉



☝記事内容

出た~!幻の酒か?マレーシアの地酒


日本といえば日本酒、 フランスといえばワイン、というように土地土地の地酒を飲むのは旅の楽しみの一つ。
シンガポールではせいぜいタイガーやアンカービールくらい。しかし馴染みの深い、お隣マレーシアにも地酒があり、しかもそれは幻の酒とい……。早速取材してきましたので、ご報告しましょう。

その地酒の名前は「トディ」という、ココナッツから採れる、ココナッツワインである。 クアラルンプール(以下KL) 市内でも飲ませてくれるところはあるというが、地元の人でもあまり知る人はいないとのこと。もちろんイスラム教ではアルコールは禁じられているので、イスラム教徒がほとんどを占めるマレー シア人がそんな地酒のことなど知らなくて当然といえば当然である。

同じマレーシアの人でも、インド系ワーカーの人がよく飲むもので、どちらかといえば労働者の酒らしい。話によると、KL市内に出回っているものは、産地から運ぶのに少し時間がかかっているため、あまり新鮮ではないというので、早速、KL市内から一番近い産地を訪ねてみた。

いろいろ尋ねてやっと見つけた店では、ビール瓶に詰められ、冷えたトディを出してくれた。
トディは、ちょっとクセがあってそんなにおいしいものではなく、日本酒と甘いワインを割ったような(?) 不思議な味。 アルコール度数は結構高く、ビールよりもキツイ(一気に飲むとカックリ来るので気をつけたい)。 向こうのテーブルに一人のインド系のおじさんが、トディを一気に飲み干していた。かなりいける口である。初心者には真似できないな(何しろクセが独特なのだ)。

やっとの思いで飲み干した頃、一人のインド系のおじさんが、バケツを2つ担いで店に入って来た。
なんと、採れたてのトディである。蜂が浮いていて、いかにも採れたてのナマナマしいものであったが、わざわざ来たのだし、トライしてみることに……。

こちらは、先に飲んだものとは味が違っていた。冷えてないからというのもあるが、一番の原因は発酵していないからだろう。店のおばちゃんによると先に飲んだトディは、前日のものだということだが、1日でこんなにも違うとは!採れたてトディはまさに「幻」の味である。

トライしてみたいですか?トライしたい方は、車がないとなかなか行けませんが、 KLからBANTINGというエリア(有名な日系メーカー工場が立ち並ぶ)を道に沿って、PANTAI MORIB方面ヘ1kmほど進んだ右手にある小さな簡易食堂で飲めます。田舎なので、英語はほとんど通じません。少しマレー語が出来たらいいかも。
※1996年の記事につき、お店は今もあるとは限りません


\編集部コメント/
現在、KL在住の方に聞いたところ、今でもトディを楽しめるレストランは色々とあるみたいです。ギネスと割って飲むなど、バリエーションも! もしシンガポールでも「トディ」を飲めるお店をご存知の方、いらっしゃったら教えてください。




1996年9月号/Vol.33

小籠包、餃子、シュウマイ、みんな大好き飲茶。
今回は、1996年9月号P.6に掲載されていた飲茶をいただく際のマナーをまとめた過去記事をお届けします!

というか、飲茶にマナーってあるの?
……ほとんどないそうです💦
ですがこの記事、中国でテーブルをトントンと指で叩く感謝表現のルーツを面白~くご紹介しているので、ぜひお楽しみください。



☝記事内容

飲茶的マナーッ!


おフランス・懐石料理と比べれば、無いに等しい飲茶マナー。
その数少ないお約束も、中華料理のテーブルマナーと同じで、

一、音をたててススルベからず。

二、湯類(スープ)はレンゲを使うべし。

三、飯の茶わん以外は手に持って食べるべからず。

以上を厳守。
あと、目上の人とテ テーブルを囲む場合は、

四、「ドウゾ」と勧め、その人が食べ始めるまで待つべし。

が礼儀だが、最近はあまりこだわらないのでこれはオプション。

あと、お茶のポットのふたを半分ずらしておくのは「オイ、お茶おかわり」の合図。無口でシャイな貴兄も、この秘密のサインでおおいにふんぞりかえれる。
そしてお茶を注いでもらった時、ふんぞりかえりながらも無言で「謝謝(広東語では「ンコイ」 だそうだ)」の印、『人差し指でテーブルを軽くたたく』を忘れないこと。なんだかイライラしている時の仕種みたいだけど、これには由緒正しい説話がある。

むか~し、むか~し、清王朝の王様が、
「朕はシモジモの者の暮らしを見学したいアル」と、一般ピープル風に変装し、臣下のお役人を数人連れて、街へやって来ました。
「なにがあっても、朕が王でであることは秘密でアルよ」と、堅く言い渡された役人達は、旅の一行を装いつつ王様に気を使い、「カクさん、スケさんも大変だよな~」とボヤいておりました。 なんといっても相手は一国の王様。 旅仲間を演出しつつも、お気に触れては左遷、リストラ、首チョンパです。御上の気まぐれにつきあわされるのもお役目アルと……旅の無事を祈っていたところで、

「朕は……いや、我は優れたアル。ちょっとそこの茶店で、シモジモの者のようにお茶を飲みたいアルね」と、早速ワガママが始まりました。
「主人、茶をくれ」
「OKアル」
無愛想な主人は一行分の湯のみと茶釜をテーブルにおいて、とっとと奥へひっこんでしまいました。

「朕が……いや、我が注ぐ!アル」 と、スッカリその気になっていた王様は、お供の家来ひとりひとりにお茶を注ぎ、恐れ多くも王様にひれ伏すことが許されない彼等は、
「身にあまる光栄~」と、真心こめた感謝のしるしとして、テーブルを人差し指でトントンとしたそうな。

……本来は、お茶のおかわりを持ってきた給仕にお礼としてトントンするのではなく、お茶を注いでくれた同席の人に対してのみトントンするらしい。
「給仕は客に使われてアタリマエ。客は給仕をコキ使ってアタリマエ」の時代は、しかし一昔前のことで、民主化した現在は「トントン」(おおきに)を忘れずに。


飲茶的極意!

ウエイター、ウエイトレスが押すワゴンから、好きな点心を取る「伝統的」飲茶形式から、メニューから食べたいものをどんどんオーダーする「来るまでのお楽しみ」風飲茶まで、店によってスタイルは異なるが、要は「美味しく楽しく」だ。気のあう友人と一緒にワイワイやって、締めくくりの中国式ゴチソーサマ「でかいゲップ」を堂々と放出できれば、アンタは一人前の飲茶の達人。このゲップこそが飲茶の、強いては中華の極意なり。



1996年2月号/Vol.26

25年前、153名の方にご協力いただいたアンケート結果をピックアップ!
これまでに2年近く発行したPARTI_Vol.24(24号)の中で一番人気があった記事とは……?




\編集部コメント/
またしても時代を感じるアンケート結果でした。
趣味のランキングは、1位が読書、2位がゴルフ、3位がテニス。なんとも健全。ただ、8位に入ったシャドーボックスにはびっくり。営業Tはこの習い事自体を最近知りました。




1996年8月号/Vol.32

1996年3月号 「ことばのおはなし❶」でシングリッシュについて触れましたが(←保存版なく閲覧できませんが)、1996年8月号P.20に掲載されました「ことばのおはなし❷」の内容も、大変興味深かったので、今回ピックアップ。この当時、原稿執筆を担当したライター筆者によるアカデミックなコトバについての考察をお届け!



☝記事内容

シンガポール人の言語感覚
ことばのおはなし❷


自分のコトバ
私は、在星4年になるが、シンガポーリアンの英語力に関しては測りかねている。スカッとした英語を話す人(スノビッシュな感じがしてお気の毒)、コテコテのシングリッシュを話す人(ごく一般的)、超ブロークンの人(それでもベラベラしゃべる)、 全く話さない人(異星人のようだが年配の人に多い)など様々だからだ。

それでも、誰しもが涼しい顔をして、大した不自由も感じないで生きていけるのが、この国のスゴイところだろう。裏を返せば英語は単なる公用語のひとつに過ぎず、それぞれがべつに自分のコトバを持っているわけだ。それに中国系なら北京語(=マンダリン。 中国における標準語)、あるいは当地で最もメジャーな方言、福建語が話せたら、世間で何が起きているか、ちゃんと わかるし、井戸端会議にも参加できるだろう。
なんたってフツーの人が二つ以上のコトバを話す国なのだ。

ところで、母国語と言う時、私たち日本人にとってのそれは、日本語以外のなにものでもない。学校で文法を教わるよりずっと前に親から自然に学んだコトバ(英語でmother tongueと言うだけあるなー)ゆえ、やっかいだと言われる日本語の読み書き&会話が、一応、自由自在にでき、全くありがたいことである。

しかし、シンガポーリアンに「あなたの母国語は?」と質問したとしたら、返答に困るのではないだろうか。
現在の学校教育は完全な二カ国語でなされているらしいから、一般的に若い世代は英語で授業を受け、北京語、マレー語、タミール語のどれかを選択して学習しているはずだ。

で、彼らにとってどれが母国語になるんだろう……
家族とさえタミール語でなく、一日中英語で話しているインド系の人もかなりいる。マレー系だが、新聞は英字紙の方が読みやすいという人や、便宜上、北京語を頻繁に使うが、方言でないと感情の細かいところまで伝えられないという中国系の人も多い。母のコトバが一番身近とも限らない。

政府の教育方針にも、これまでいろいろな変遷があった。中国の分家、すなわちコミュニストの国と誤解されるのを嫌って、中国系でありながら、中国語を学べなかった時代もあるし、英語とどちらか一方の選択だった時代もあり、ごく最近まで、英語儒重社会だったと言えるだろう。

しかし、中国の市場開放に伴って、今やシンガポール政府が「北京語、やんなさい、やんなさい」と奨励しているのはご存じの通りだ。若くて小さい国だけあって、よく言えば柔軟である。「用華語表心意」というスローガンは、発音できなくても意味はしっかりわかるからおもしろい。

というわけで、何語が得意かというのは、それぞれの家庭環境、教育水準、交遊関係、意識、そして時代背景に関係してくるようだ。


驚くべきヒヤリングカ
シングリッシュを見下している人も多いが、なにを隠そう、わが夫もりっぱなシングリッシュを話す。私との会話はもっぱら関西弁で、日本語で考えてしゃべっているそうだが、よそから突然電話がかかってきたりすると、言語が変わると同時に、人格まで変わったように見える。

英文法は絶対私の方がよく知っているとお互いに認めているが、アメリカ映画を観に行くたび、がく然とするのである。アメリカ人にしかわからないような、超早ロスラング盛りだくさんのジョークに大笑いしているのだ。彼だけじゃない、まわりの若いシンガポーリアンは人種を問わず、かかかかーーと笑っているのだ。なんという屈辱だろう。私以外に笑っていない人なんていない!
込み入った内容もほとんど理解している。彼らの底力を映画に行くたび、見せつけられ、暗がりの中で落ち込む私である。

年配の人だってスゴイ。夫の母は、北京語、湖州語、福建語、広東語、 もひとつおまけにマレー語もに流暢に話すが、私が訪問するたび、台所で「これは日本語でなに?」と食材を指さしてきくので、答えると、それを即オオムがえしにする。おかげ で、母は最近じゃ、魚介類から野菜に至るまで、スラスラ日本語で並べられ、食事の時には、元気に「いただきま~す」と完ぺきに近い発音で言う。

自分の名前 [佳子] を中国読みで発音して、[餃子] だと、みんなに勘違いされる私は、情けなくてやってられない。(文:山口桂子)



1996年9月号/Vol.33

もう一記事、1996年9月号P.20に掲載された、山口桂子さんのコラム記事をご紹介。
皆さん、ドリアンはお好きですか???



☝記事内容

愛しのドリアン様


殻をこじあけると、黄味がかったクリーム色のポヨンポヨン果肉が、ムフフ・・と微笑んでいる。そのねっとりした舌ざわり、チーズのごときコク。魔性の果実ここにあり。 (このページをこするとドリアンのにおいがします。 ウソだよー)


「私、ドリアン大好きなんですっ」と言うと、シンガポール人にも日本人にも疑わしげな、あるいは奇妙な目で見られる。

シンガポール人のほとんどは、ドリアン様を愛しているが、外国人の多くは、あのいかつい外見とキョーレツなにおいに圧倒され、いや打ちのめされ、味見してみようという気さえおこらないようだ。

シンガポール人もそれをよく知っていて、ドリアンに目の色を変える私をちょっと不思議がるが、次に連帯感が生まれるのか、「あんたはずっとこの国に住めるよ」とポンと 肩をたたかれたりするのだ。

えーここで、食べず嫌いの読者に申し上げたい。
ドリアンはうまい!!
あの独特のにおいすら、今となってはパブロフの犬、おいしそーと舌なめずりしてしまうほど私たちにとっては心酔わせる香りである。

ただし、自分に食べるチャンスがない時、たとえばエレベーターホールに他人が食べたあとのイガイガ殻だけが放置されているような場合、ありゃあ、まさしく地獄のにおい、不快極まりない。私はこれをドリアンの死骸と呼ぶ。


ドリアンの選び方と食べ方
誠に残念ながら、新参者の私にはドリアンの正しい選び方を伝授する能力はない。しかし、主人の父をはじめとする名人達(職業にしているわけじゃない)のノウハウを少しは披露できそうだ。

まず、どこへ行くか。
もちろん、露店のごときドリアン屋だ。父の行きつけは、ゲラン界隈。ドリアンの屋台が縁日みたいに通りに沿って並んでいるところ。

そこで、ドリアンを選ぶお客たちの表情は真剣そのもの。あのごつい殻に鼻をくっつけてクンクン嗅いだり、持ち上げたり、 軽くたたいたり、儀式のようである。まちがいがあってはいけないのだ。家族の喜ぶ顔も見たい。ふむ、ふむ、う~ん、よしコレとコレだ!と決断を下す。この時ばかりは、 ネバマインラーって人はいない。あんな重くてキョーレツなにおいのもの、スカをつかんでしまった日にゃ不幸すぎるではないか。

どんな名人でも毎回100%大当たりというわけにはいかないと思うが、少なくとも我々、素人がハズレを回避するためには、3個まとめて10ドルというようなバーゲンドリアンには手を出してはいけない。

各店の「包食」と大きな字がぶらさがったコーナーで選ぶのが正しい。そこには、店頭に並べられたのより風格ある、大きめのドリアン様があなたを待っている。値段は1キロいくらとなっているから、店の人にまずいてみる。大粒のは当然高くなるが、大きけりゃいいってもんでもない。

先日、主人と買いに行った時のは、確かキロあたり8ドルで、2個あわせて30ドル前後だったと思う。端数はまけてもらった。

結構高いと思われるかもしれないが、「包食」のドリアンは、その場で、店の人にナタで割ってもらい、中身を確認することができる。もし、不満なら、つっ返して別のを 割ってもらえる。すなわち、ギャランティー付きなのだ。それだけ店側に自信のあるドリアンということになる。

これまでうっとりするほどおいしいドリアンに出会ったことがない人は、今度こそマジで選んでみてほしい。ドリアン通のシンガポール人と一緒に行くのがよろしいようで。


ドリアンの魅力
私が初めてドリアンに出会ったのは(大げさか)、学生時代タイに旅行した時。食い意地のはっている私はにおいぐらいがまんできたが、大しておいしいとも思わなかった。 なぜ東南アジアの人たちが「女房を質に入れても……」と言うほど好むのか理解できなかったが、あれは単においしくないドリアンだったのだ。

ところが、ほんの数年前、マレーシア人の友人とバレスティアのフットマッサージに行った帰り、荷車にドリアンを山のように積んだおじいさんを見つけ、ドリアンで有名なマレーシアはゲマス出身の彼女が一つ選んだ。

その場で割ってもらって一口。
ううっ、おいしい!!なんという豊潤な……今までの人生、損をしてたとばかり、二つめのねっとりした房をほおばる私であった。これが、果物とは思えない濃厚なおいしさに開眼した、私のドリアン元年である。

注:房をとり出す時、爪にくいこむので、食後は注意深く洗いましょう。でないと残香がつきまといます。なお、アルコールと共に食すのは御法度です。



1996年に連載されていたレシピページ
アイリーン塩見のキッチンワンダーランド

1995年から始まりましたこちらのレシピページも、1996年5月号をもって終了。
一部白黒ページもありますが、1、2、4、5月号のレシピページをご覧ください。(3月号は誌面が行方不明のため未掲載)





1996年6月号より連載がスタート
リリー・ウォンのおまかせ!クッキング

1996年6月号よりスタートしたリリー・ウォン先生によるレシピページ。
リリー先生は日本在住歴も長いため、日本人の口に合うようなお料理をたくさん紹介してくれていますよ。



※広告は当時のものです

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